日本のカルト映画 追悼のざわめき

The following two tabs change content below.
アバター

ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

【ナイトメアファミリー誕生秘話はこちらから】

絶対不変のもの…「常識的に考えて」とか「普通なら」という出だしで始まる主張は、主張ではありません。それは、多くの人はこう考えるであろうという「予想」です。

もっとも、「普通」や「常識」を言うことが、まったくいけないわけではありません。アメリカでもないのに、人の家へ入る時に靴を脱がないまま上がっていったら、殴り飛ばされても文句は言えないところです。

それは極端な例ですが、そんなわけで「普通」や「常識」といった概念を持っていることは必要でしょう。しかし、それらがいつでもどこでも通用すると思うようになると、もういけません。柔軟に対応することができなくなります。常識を「持っている」ことと、常識に「縛られていること」はぜんぜん違います。

普通や常識なんて簡単に覆るものだということは、源平の時代から、祇園精舎の鐘の声によって打ち消されていることです。

これは僕が個人的に感じることですが、その常なきこと、価値観の幅といいましょうか。僕が子供のころに比べて、大きく広がっているように思うんです。日本に限らず、世界中で。

そんな混沌とした世界には、「普通」も「常識」も「善」も「悪」もありません。僕らは、どうすれば、迷うことなく自分の言動を選ぶことができるのでしょうか。それを、1本のカルト映画を参考に考えてみたいと思います。

日本のカルト映画 追悼のざわめき

【主人公の名前は?­】

参考にする映画のタイトルは「追悼のざわめき」です。制作された国は日本。とくにカルト映画として紹介されることの多い映画です。以下、ネタバレありで内容を紹介したいと思います。

誠と菜穂子は恋愛関係にあり、ともに暮らしています。こう書くと、いかにも羨ましく思えるかもしれませんが、菜穂子は人間ではありません。マネキンです。誠は、マネキンを恋人だと想定して「共に暮らしている」わけです。

とはいえ、菜穂子は単なるダッチワイフのような存在ではありません。誠は、彼女(?)に、ダッチワイフ以上のものをもたらせていたのです。何をもたらせていたのかというと、それは女の生殖器です。

誠は殺人犯でした。が、その行為はともかく、動機は菜穂子に対する愛情でした。誠は何人もの女性を殺害し、その生殖器を切り取って持ち帰り、菜穂子の「体内」に詰め込んでいたのです。

この行為だけでも、カルト映画の評価を与えられそうですが、問題はそんなことではないんです。いや、それも大きな問題ではあるんですが、さらに問題なのはこの先です。

誠によって、「体内」に生殖器を詰め込まれた菜穂子は、ついに命を持ってしまうのです。しかも、誠との間に子供までできてしまうのです。

単なる猟奇殺人犯の異常行動を描いたものだとすれば、カルト映画というよりは、スプラッター映画とかスラッシャー映画などの評価を得たのではないかと思います。

が、「追悼のざわめき」で描かれていることはそれだけではありません。マネキンが命を持つ、というファンタジックな要素も描かれています。

また、菜穂子が命を宿した時くらいを境に、時間の概念が失われていきます。いろんな時代の人たちが登場するようになります。

これはファンタジックというよりはSFといった雰囲気でしょうか。その違いはよくわかりませんが、現実で起きることのないことが起きて、物語は進んでいきます。

そうした要素があるために、スプラッターやスラッシャーのような評価よりは、そうしたジャンルはよくわからないけれども、内容が内容だけに、あまり多くの人からは好かれないという曖昧な雰囲気の部分で「カルト映画」と評価されることもあるのではないかと思われます。

それはともかく、菜穂子との間に子供ができたことをきっかけに、誠は職につきます。働く先は、小人症の兄妹が経営する下水道会社です。

ある日のことです。誠は小人症の兄妹の妹(夏子)からデートに誘われます。誠はその誘いを受けて出かけるのですが、その最中に暴漢が現れて、夏子をレイプしてしまうのです。

ところが、そのレイプは夏子にとって、決して悪いだけの出来事ではありませんでした。レイプとはいえ、性を交わしたことにより、夏子はみずからのコンプレックスを解消することができたのです(夏子は、自分の容姿にコンプレックスを持っていた)。

が、当然、だからといって良いだけのことでもありませんでした。レイプされたこと自体はもちろんなんですが、この段階ではじめて、誠には妻(菜穂子)がいることを知ったのです。夏子は嫉妬に駆られ、誠が菜穂子とともに暮らす廃墟ビルへと向かうのです。

ここで話が変わります。今度は、また別の兄妹の話です。その兄弟は、とても純粋で、遊びといえばケンケンパをするくらいしか知りません。

この兄妹もまた、廃墟ビルに美しいマネキンがあるのを見て、そこへ惹き寄せられていくのです。他にもたくさんの人が出てくるのですが、みんな違う事情を抱えているものの、結局のところは菜穂子に魅了されて廃墟ビルへ行ってしまうのです。

言ってみれば、たくさんの物語があって、その物語のすべてに「菜穂子」という共通点が存在する、といった感じです。ちなみに、誠の最後はとてもあっけないものです。

土手に寝転がって寛いでいたところへ、円盤投げの円盤が飛んできて、それが頭に当たって死にます。このことはいろんな論評にも書かれていることですが、大事件になるだろうと書かれているものもあります。ですが、この「追悼のざわめき」の世界観から見ると、そう問題にはならないように僕は思います。現代の日本なら間違いなく大事件でしょうが・・・・・・。

なぜかといえば、この「追悼のざわめき」の舞台が、非常に雑然としているからです。場所としての舞台というなら、きっと「日本」なのでしょう。でも、「いつ」の日本なのかはわかりません。すでに書いたように、時間が錯綜しているのです。

たぶん、この世界には人権みたいな概念はありません。人間なんて、ひとり死んだところで困りはしない、くらいの軽いものなんだと思います。だから、たぶん誠の死も、笑い話のネタにこそなれ、悲しむ人もいないでしょう。

映画といえば、大ヒット映画にしろカルト映画にしろ、なにかしら「1本のストーリー」があります。が、この「追悼のざわめき」には、ストーリーが「何本も」あります。だからなのか、一貫性のようなものがありません。その様子は、まるで「普通」や「常識」などが通じにくい現代の日本のようです。

【主人公は誰なのか】

以上でネタバレは終わりです。ネタバレになっていたかどうかも怪しいところですが、僕の頭ではこのくらいしか解説ができません。でも、「菜穂子」という共通点を持った「複数のストーリー」が交錯する映画――というのはわかっていただけたのではないかと思います。

主人公は、誠だとされているようですが、それも怪しいところです。複数のストーリーが混在しているので、別の視点から見れば、誠の存在は脇役であったり、時としてはエキストラ止まりと映ることもあるかもしれません。それを踏まえた上で、「追悼のざわめき」の主人公は誰なのかと考えてみますと――。

日本のカルト映画 追悼のざわめき

【三人称】

この映画の中で、まったく動かない人物がいます。誰かといえば、菜穂子です。菜穂子は何も考えず、何も感じず、自分に接してくる人間の様子をただ見ています。

永遠不変のものなど、この世にはないだろうとは思います。でも、この「追悼のざわめき」というカルト映画の中においては、絶対的と言っていいほどに菜穂子は不変です。

偏見がない――といえば、聞こえはいいですが、それは言い換えれば思考も感情もないということでもあります。その菜穂子こそが、この映画の主人公なのではないでしょうか。

【軸のないこの世界で】

はじめの問題に戻ってみます。常識や普通の幅が大きく広がっている今の日本で、いや世界で、僕らはどうすれば、迷うことなく自分の言動を選ぶことができるのでしょうか?­「言動」とは、「言う」「動く」ことです。が、そもそも「言動が必要なのか」というところが問題です。

世の中の動きは激しいものがありますが、自分とその動きはどう関係があるのでしょうか?­自分とは関係がない、または興味がないことであれば、無理と何かを言ったり動いたりする必要はありません。何もしない、という選択肢だってあります。

行動しなくては何も変わらない――といった言葉を耳にすることがありますが、それは言い換えれば行動することは変わってしまう――ということでもあります。変化は、必ずしも「自分にとって良いもの」であるとは限りません。

どう行動するか、ではなく、まずは「行動するか・しないか」です。その間に、観察と考察を重ねます。自分がどうなりたいのか、それを決めるのが考察です。もちろん、現状維持でも構わないと思います。

もし現状が満足できないとしたら、満足のいく状態になるためには、どんな方法をとるべきかを考える必要があります。そのためには、自分と周囲がどういう状態なのかを観察する必要があります。その上で、ようやく行動することができます。

【なんとなく踊らされているような・・・・・・】

僕はあまり自己啓発本などは読みませんから、その内容はほとんどわかりませんが、行動しろとか、目標を持て、というようなことが多く言われているように思います。生きる意味は誰にでもあるとか、誰にでも生きている価値があるとか・・・・・・。

ではどんな価値や意味があるのかというと、それは自分で探せというわけです。自分にしかわからないと。なにを根拠に意味や価値があると言っているのか知りませんが、あるけど知らない、知りたければ自分で見つけろ、というのは、大げさな言い方をすれば立証責任の放棄であって、まるで無責任だと僕などは思います。

僕が思うのは、意味も価値もない人間だっているだろうし(むしろ、そういった人の方が多いのではないかと思います)、そうした人が、目標を持たないまま、のんべんだらりと生きて、いつの間にか歳をとって、なんとなく死んでいく――というような生き方があってもいいように思います。僕はそうした生き方にも肯定的である価値観が望ましいと思います。

「追悼のざわめき」に登場する菜穂子は、まさにそんな存在ではないでしょうか。自分では何もできないし変わることもできないけれども、反対にいえば、どんな変化の中にあっても不変のままでいられる不動の存在。

変化せずにはいられないのではなく、変化はできるけれども、不変のままでもいられる――そんな軸があってから、変化という選択肢はあるべきだと思います。なぜなら、「変化する」しか選択肢がないとすれば、焦りが出てしまって、ふとした拍子に、不本意な変化を強いられてしまうことにもなりませんから・・・・・・。

ABOUTこの記事をかいた人

アバター

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

【ナイトメアファミリー誕生秘話はこちらから】