多様化の中の異常!トラウマ映画 邦画 ビジターQ

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ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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多様化の中の異常!トラウマ映画 邦画 ビジターQ

【普通ではいられない】

例えば、なんらかの理由で腕がないとか、あるいは知的に遅れがある――などの様子の見られる人を「障害者」といいます。また、「障害者」ではなく「障碍者」と書く場合もあります。

「碍」の字には、「そこなう」という意味があります。「害」もまた「そこなう」という意味があるのですが、こちらの字は同時に「わざわい」「悪い影響」などの意味もあるそうです。

「障害者」と書いても誤字ではないのですが、「障碍者」の字の方が今はよく使われているみたいです。悪い意味のある字は嫌ですから、その傾向もわかる気がします。もっとも、いくら字を変えても認識が変わらなければ意味がないのですが・・・・・・。

それはともかく、以前ならちょっと変わった人や、集団生活をうまく送れない人などは「変人」などと呼ばれていましたが、今では、たとえば「発達障碍」などという診断がなされるようになりました。万引きを繰り返してしまう傾向も、単なる「悪人」なのではなく、「クレプトマニア」などと診断されて、罰を与えるだけではなく、治療を施す対象になっています。

さらに、犯罪や障碍だけではなくて、海外からの労働者がどんどん日本に入ってきて、多様化が進んでいます。障碍も、単に「そこなった部分がある人」なのではなく、障碍は個性の1つだ、という考えも生まれています。

いずれにしても、いろんな個性や文化を持った人たちが集まる中で、相手への理解が、以前よりも求められるようになっているのではないでしょうか。相手を認めるのは大切ですが、それと同じくらいに、もしくはそれ以上に、自分が認められることも大切です。

ひと昔前までは、「普通であること」が、その手段でしたが、こう多様化が叫ばれるようになると、どうも、その「普通」という感覚が持ちにくくなるのではないかと思います。どうすれば、僕らは他人を認め、また自分を認めてもらうことができるのでしょうか。

【おすすめ映画】

そんな社会に生きる僕らにとって――という言い方をすると大げさかもしれないですが、前の見出しで書いたことを踏まえつつ、今回も映画を紹介したいと思います。タイトルは「ビジターQ」。

内容はというと、めちゃくちゃな家族の物語です。家族は4人です。が、そのどの人も、異常です。冒頭から情を交わす場面が流れるのですが、その2人は父と娘です。つまり近親相姦です。

そして母親は薬物中毒者。息子は家庭内暴力をするのと同時に学校ではひどい虐めの被害にあっています。しかも、その虐めは、この家族の済む家に花火を大量に打ち込んでくるほどにまで至っています。

禁忌だらけの映画で、トラウマ映画――として紹介することも出来るのですが、「Yahoo!映画」では「コメディ」に分類されています。

コメディとは、当然ですが、笑いをさそう内容のことをいいます。が、ひとくちに笑いといっても、その種類はさまざまです。大笑い、爆笑、微笑み、嘲笑、苦笑、薄笑いなどなど・・・・・・同じ「笑い」でも、その根源にはまるで違った感情があります。

もし、この「ビジターQ」をコメディだとするなら、多くの場合は面白いというよりも、唖然とした挙句の、苦笑に近いものかもしれません。またトラウマ映画とされるのならば、映像や、虐め、暴力、近親相姦などといった禁忌とされている内容があるからではないでしょうか。

どんな作品もそうですが、きっちりと分類することは難しいものですが、この映画はその難しさがいっそう顕著なのではないかと思います。

ネットで「ビジターQ」のレビューを見てみますと、案の定と言うべきか、「異常」「気狂い」などの言葉がよく見られます。それらの認識は、まあまあ正しいのでしょう。

が、ここでひとつ考えてみたいことがあります。それは何かというと、どうしてそんな気狂いのような評価を受ける映画を、人は見たがるのか――ということです。

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【トラウマ映画として】

その前に、まずトラウマ映画としてこのビジターQという邦画をみるとどうでしょう。見るとトラウマになる――という意味でいうと、さほどではないと思われます。

が、たとえば性被害や暴力の被害に遭ったことがあって、それがトラウマとなっている場合は、それを刺激をする恐れは高いと思われます。

しかも、ただそういった描写があるだけではなく、コメディとして、つまり笑いを伴うかたちで描かれているので、すでにあるトラウマを刺激するという意味でなら、ほかの映画以上に「トラウマ映画」と言えるかもしれません。

なので、トラウマ映画目的で見ると、やや肩透かしを喰うかもしれませんが、過去のトラウマの傷口を開くという意味でいうなら大いに「トラウマ映画」たりうるでしょう。もっとも、そういった過去を持っている場合は、トラウマ映画など求めないとは思いますが・・・・・・。

【物語ってなに】

まれびと――という言葉があります。お客さんのこと「お客人」などといいますが、その「客人」を訓読みにすると「まれびと」になります。この「まれびと」という言葉は、実は民俗学の中では重要な位置にあります。

ところで、映画だけではなく、小説にしても漫画にしても、あるいは人形劇にしても舞台にしても、それらの総称として「物語」という言葉が使われます。では、物語とはなんでしょうか。

もちろん英語でいうところの「ストーリー」に当てはまる側面もあります。が、語源をただすと、これは人ではないモノが、同じように人でないモノを語ることに行きつきます。

人でないモノとは、ひとつは「まつろわぬもの(朝敵)」です。そしてもうひとつは、障碍者です。この場合の障碍者はおもに視覚障害者で、多くは琵琶法師です。今ではどちらも人間ですが、昔は「モノ」でした。モノがモノについて語るから「物語」というのだそうです。今の価値観に照らすなら、ひどい差別です。

その話はいったん置いておくとして、ここで、はじめの問題に戻ってみたいと思います。どうして「気狂い」などと評されるものを人は見たがるのか――という問題です。

これは異人に由来します。異人は、字の通り、異なる人をさします。つまり異常な人間、気狂いじみた言動、普通ではないありさまです。

それが見世物として、あるいは嘲笑の対象として見られるのには理由があります。異常なものを異常だと認識することで、自分が所属している社会の秩序や、また自分がその秩序通りであることを認識するため――というのが、その理由なのだそうです。

有り体にいうならスケープゴートです。虐め問題に例えるなら、1人を虐めという「儀式」の犠牲者とすることで、集団の結束を強める――という効果を狙っているのです。

異常なものを異常と認識できる自分は「普通」である、そして普通ならば、社会に許容されている――そんな安心感を得るために「異人」が必要とされる――という側面があるというのです。人間は社会の中で生きるものですから、そうした安心感が求められることも理解はできます。

が、どうでしょう。ある人を異常とみなすことで安心することが「普通」な心理状態は、果たして「普通」なんでしょうか。普通は普通なのかもしれませんが、そこには恐ろしさを僕は感じます。

もし自分が異人だと社会から認識されたら・・・・・・。あるいは、飛行機に乗って敵の艦隊へ突撃することが普通で、それに背くことが異常で、その「異常者」を排斥することが「普通」なのだとしたら・・・・・・。

普通であろうとすることで、どんどんと異常になっていってしまうことが予想できます。「普通」という怪物は、おそらくすべての人間に取り憑いていて、常に人を脅かしているのではないかと思います。

では、どうやって社会の中にいる、という実感を得ればいいのでしょうか。その答えのひとつとして参考になるのが、さっき途中でやめた「まれびと」の考え方なのだと思うのです。

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【差別の裏の意味】

障碍者やまつろわぬものが、モノ扱いされていた――とさっきは書きました。つまり差別されていたわけですが、差別といっても、決して虐げられるだけではありあせんでした。

もし相手を差別したいだけなら、「客人(まれびと)」――「客」なんて言葉は使わないはずです。客はもてなされるものですから、虐げる相手に対して「客」の字をあてると矛盾が生じてしまいます。

では、どうして、異人が「まれびと」と呼ばれていたのでしょうか。それは、「異人」は時として、コミュニティに福をもたらす存在として認識されていたからです。「客人(まれびと)」は、その字の通り、コミュニティの外部からやってくる人を指すことが多くあります。

具体的にどんな福をもたらすのかというと、たとえば技術だったり、芸だったり、知識だったり文化だったり、いろいろです。このどれも、「外部からやって来た人」だからこそ持ちえているものと言えるものです。

現代風に言うなら異文化交流です。実際、外国人労働者を雇った会社の社風が改善した――という例もあるくらいです。

きっと、当時もそうだったのでしょう。モノ――つまり異人、そして「まれびと」は、差別の対象であると同時に、畏敬の対象でもあったわけです。そこで、今回紹介した邦画「ビジターQ」の見方に立ち返ってみます。

【この異常な家族】

この記事のはじめにも、「ビジターQ」についてはさんざんな言い方をしました。「めちゃくちゃな家族の物語」だとか「苦笑の対象になる」だとか・・・・・・。

一般的な価値観に照らすなら、この印象も決して間違ってはいないと思います。ですが、問題はその、「一般的な価値観」という怪物です。障碍が個性になり、男性女性、あるいは子ども大人といった既成概念がなくなり、あるいは変わり、また外国人労働者が増加し、もはや「普通」という言葉が何を指すのかも分かりずらくなっています。

もちろん、誤った既成概念の消滅や変更、それから異文化交流が深まるといったことは歓迎するべき風潮だと思います。

が、一方で、普通という概念がなくなるということは、異常との区別による普通、そしてその普通から得られる受容感は得られないということでもあります。

そういった中において、この「ビジターQ」という邦画はどのように捉えられるでしょうか。もちろん見方は人それぞれです。

この異常な家族を見て、自分はこうではないと優越感を感じるのも良し、また、この家族の在り方を、いかに許容できるかと自分を試してみる教材として見るのも良しです。

ところでタイトルにもなっている「ビジター」ですが、日本語に訳するなら「外来者」となります。ほかにも、会員以外の利用者とか、外部から試合をしに来るチームなどといった意味もあるようです。いずれも「部外者」であることに変わりはありません。

「ビジターQ」という映画におけるビジター、つまり部外者は、作中に登場する人物のひとりです。この人物は、ほとんど何もしません。また、正体は何なのかも、最後までわかりません。ただ登場し、主人公の頭を殴りつけ、しかも主人公の家に勝手に居候を決め込みます。居候――そう、まれびとなのです。

このまれびとは、ビジターQという邦画の中に登場するこの家族の中でにおいては、異人です。その性格や価値観は分かりませんが、仮に家族の実態を知って異常だと思っても、家族は4人ですから、家族の価値観の方こそが、ここにおいては「普通」なのです。

が、視野を広げると、異常と普通の立ち位置は逆転します。「家族」は「社会」の中にあるわけで、「家族」よりも「社会」の方が圧倒的に人数が多いわけです。その社会から見たら、やはりこの家族の方が異常なわけです。

では、「この家族」ではなく「この邦画」として、ビジターQを見るとどうでしょう。その場合のまれびとは観客です。人数としてはもちろん観客の方が多いですが、映画は多くの場合、その世界観に浸りながら見ます。浸る――ということは、自分がその世界に入り込むということです。そして「自分」は1人しかいません。

そうすると、やはり人数の面からしても、観客の方がビジター、つまり「まれびと」となります。とすれば――。観客はこの家族を受容しなくてはならないのでしょうか。あるいは、この家族のような生活をしなくてはならないのでしょうか。

【映画は異界】

大丈夫です。先にも書いたように、映画は「その世界に入り込んで見る」ものです。「入り込む」ということは「帰ってくる」ことが可能ということです。

日常とは違う世界が広がるということは、言ってみれば映画は異界です。でも、観客は異界に住まう必要はありません。こっちの世界に帰ってくれば、異界は異界として遠ざけることができます。

しかし、異常なものを見てきて戻っているので、きっと価値観やモノの見方は多様化していることでしょう。多様化しているなら、その視点や価値観こそが、他者を認める力につながるはずです。

そして、他者を認める力がついている人は他にもいます。ということは、自分が認められる機会も増えるということです。普通という言葉が通じなくなりつつある今の社会で、差別を抜いて受容感を得る方法には、ひとつとして、自分自身が、多様な価値観を身に付ける――ということではないでしょうか。

あらためて書くまでもなく、こんなことは当然のことなのですが、たぶん実践されている数はそう多くはないと思われます。

もし、この「ビジターQ」という邦画を見て、トラウマ映画という評価を与えたとしたら、その時点で、この家族の価値観を認める視点が欠けていると言えるかもしれません。

このビジターQという邦画を、どの程度許容できるのか――それが、どのくらいの多様性を自分が持っているかの、ひとつのバロメーターになるのではないかと、そんな気がします。

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大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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