最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソーシリーズ

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ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソー

【わからないことへの恐怖】

遠野物語――という題の本が、今、手元にあります。柳田國男という民俗学者が記した本で、内容はといえば、遠野(東北地方)に伝わるいろいろの不思議をまとめたものです。どのような不思議かというと、山姥が現れたりとか、著しく歳を経た動物が人を攫ったりとか、そのようなものです。

そんな中にひとつ、読後にどうしても忘れられない話がありました。それは、こんな話です。

孫四郎という男の話です。孫四郎が嫁を迎えました。嫁は、孫四郎の母――つまり姑――との仲が悪くなり、たびたび泣きながら家を出るほどにまでなったのだそうです。ある日。嫁が体調を悪くして家で寝ていると、孫四郎がふと、こんなことを言ったのだそうです。

「今日こそは母を殺す」

はじめは嫁も、それを冗談だろうと思っていたのだそうですが、そのうちに孫四郎は草刈り鎌を持ってきて念入りに研ぎ始めたのだそうです。

その様子を見た嫁は、だんだんと冗談とは思えなくなってきて、姑(孫四郎の母)と一緒になってひたすらに謝るのですが、孫四郎はひと言もなく、ただひたすらに鎌を研ぐばかりであったのだそうです。

いよいよ恐れを感じて、姑は逃げ出そうとしたのですが、捕まってしまい、監禁されてしまいます。逃げ出す口実に便所へ行きたいと言うも、孫四郎はそれを許さず、便所の代わりになる器のようなものを持ってきて、これへしろと言うばかりであったそうです。

嫁と姑は、監禁された上に、すぐそばでは、孫四郎が姑を殺すための鎌を研いでいるわけです。そして夕暮になったころ、孫四郎は、磨きあげた鎌でもって、とうとう姑を斬り殺してしまったのだそうです。

その後孫四郎は警察に捕まったものの、狂っていると判断されて釈放され、もとの家で暮らし続けたのだそうです。これだけの話です。グロテスクさでいえば、もっと凄惨な話がいくつかありましたが、印象深かったのはこの話です。

なんでだろうと後になって考えてみたら、おそらくは、この話にはよく分からない部分があるからなんではないか、と思いました。

孫四郎がなぜ自分の母を殺したのか、という、その理由が見えてこないんです。いや、でっちあげれば理由はいくつか見えてくるでしょう。

嫁をいびるのが許せなかったとか、ここには書かれていない部分で母親に対する恨みだとか何かを持っていたのではないかとか、言い出せばキリがないわけですが、そうだとしても、最後に〝狂っている〟と判断されたからには、そういったことを孫四郎は話さなかったのではないか、と思われます。もっとも、この時代の取り調べや鑑定といったものがどれほど正確なものかはわかりませんが・・・・・・。

つまり――やっぱり分からないんです、動機が。もし、憎かったから殺したとか、遺産を目当てに殺したとか言うのだったら、それほど印象には残らなかったと思います。ところが、その部分がまったくわからないから不気味なのだと思います。だからこそ、こうして記録にも残っているのだと思いますし。

分からない――というのは怖いんです。これと同じことが、この最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソーに登場する殺人鬼、レザーフェイスにも言えるのではないかと思います。

彼はそもそも、なぜ人を殺すのでしょうか。作中では、彼が重度の皮膚病であることが明かされています。しかし、皮膚病だから人を殺す――というのはいくらか飛躍しているような気もします。

僕は本編を視聴してから、あとでコメンタリーをオンして見てみたのですが、その中で、製作者陣が、このレザーフェイスについて言及している部分がありました。つまり、なぜレザーフェイスが人を殺すのか、というその理由についてです。それによると、彼が人を殺す理由はこうです。

まず、レザーフェイスを含む家族たちは、社会から爪弾きにされた一族で、非常に閉鎖的な中で生きていたということです。そのため、彼らは行きかけの旅行者などを殺し、その体から革や骨を取って物を作って売りながら生計を立てるしかなかったわけです。その中でレザーフェイスに割り当てられた役割が「殺害」だった――という設定です。喜びという感情は、いろんな場面で感じます。

その中でも、自分が役に立っていると感じた時に感じる喜びというのはひとしおではないかと思います。レザーフェイスは、自分に割り当てられた「殺害」という役割を果たすことで喜びを感じていた、という設定だと話されていました。

そうだとすれば、レザーフェイスは一般人と変わりません。違うことといえば、その育った環境があまりにも狭すぎたということです。彼からすれば、非常に〝健常に〟育ち、閉鎖的な社会の中では立派な〝社会人〟として生きていたということになります。

これを書いていて気づいたのですが、僕がこの映画から感じていたのは、恐怖というよりも〝嫌悪感〟ではないかということです。

例えば、車椅子の老人が床に直接座って、トイレでじたばたしている場面ですとか、ちょっと変な顔つきをしている子供ですとか、妙な肥り方をした夫人ですとか、振る舞いの下品な保安官ですとか・・・・・・こう書いていて、かなり差別的なことを言っていることは充分に自覚しているのですが、そういう部分があるのではないか、というのが僕の本音です。

恐怖と嫌悪感は似ているか、もしくはどちらからか、もう一方が想起されるのか、そのへんのメカニズムは分からないですが、何か近いものがあるのではないかと思います。

ここまでは、分からないことからくる恐怖、もしくは嫌悪感について話してきましたが、一方で、分かっていることからくる恐怖感というのもあると思います。

【わかっているからこその恐怖】

車に乗せた見知らぬ少女が、いきなり騒ぎ始め、拳銃で自殺をする場面は衝撃的でした。この映画が始まってからいちばんはじめに遭遇する衝撃は、おそらくここでしょう。ここで一気に引き込まれます。そして、先に話したような、〝分かっていることからくる恐怖感〟ですが、これは、少女の自殺後、保安官を電話で呼んだ場面から感じることができると思います。

電話で保安官を呼ぶと、到着までに30分かかると言われますが、その時、なぜかすでに保安官を名乗る男が到着しています。時間が合わないわけです。30分経たなければ到着しないはずの保安官が、なぜ、すでに今ここにいるんだと、疑問が浮かびます。同時に、この男は誰なのだろう、という不安を感じます。

この恐怖感は視聴者にしかわかりません。登場人物は、保安官と会うメンバーと、電話をするメンバーがやや離れた場所にいるので、この時間の誤差には気づきません。気づいているのは視聴者だけです。ある意味で、視聴者は感情的な面で取り残されたような感覚に陥るのではないかと思われます。

余談ですが、この場面についてのコメンタリーを聴いて驚きました。この場面で、保安官は少女の遺体をラップで巻くわけですが、この時の保安官役の台詞は、全部この俳優のアドリブだったんだそうです。いきなり予定のない台詞を振られた相手役の俳優は、それに大層困らされたそうです。ある意味、この保安官役の俳優がいちばん怖いかもしれません。

【ループ型の構成】

見た人ならもう分かることですが、映画の終盤で、物語の筋書きは序盤に戻ります。冒頭で彷徨していた少女が、なぜ車の行き先を異常なまでに恐れ、自殺するまでに至ってしまったのか、という疑問に対して、主人公メンバーの体験を通して、登場人物も視聴者もようやく理解します。物語の終盤が序盤に繋がるという構成はよくある形ですが、大抵短編です。

長篇の映画を通してこういう形をとるのは、そう多くないんではないかなという気がします。ここでENDとしても、おそらくある種の満足は得られるのかもしれませんが、この作品ではそれで終わりません。主人公の少女は、このループを打開します。

最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソー

【影響】

嫌悪感や不安感を元にした恐怖というのが、この映画から感じられるものではないかと思います。この映画から、僕はふたつの別の話を思い出しました。

まずは冒頭と末尾の場面です。このふたつの場面は、白黒の、記録映像です。手ぶれがひどく、それが〝作品〟ではなく〝実況〟であることが強調されています。ここから僕が思い出したのは「REC●」という映画です。この映画では、全編が〝実況〟の映像として構成されています。

そしてもうひとつは、真夜中のドライブの映像です。これはYouTubeなどでも有名です。夜道をドライブしながらカメラを回していると、ひとりの女性が道を歩いているのに出会います。

撮影者たちはそれを心配してその女性を車に載せるのですが、女性は何も喋らないばかりか急に泣き出し、ようやく喋ったかと思うと凄まじい形相に変容し、車は転倒。映像も回転してぶつっと切れてしまうというものです。これなどは、この作品の冒頭にそっくりです。

「REC●」の製作者や、夜中のドライブの撮影者が、この作品の影響を受けたのかどうかはわかりません。もっとも、夜中のドライブに関しては、〝作品〟というよりも、あくまで〝写ってしまった怖い映像〟という〝体〟なので影響の有無は関係ないかもしれませんが・・・・・・。

いずれにしても、この最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソーと同じ手法の使われた映画や映像に気を取られてしまうことを考えると、それ以前に、これらの要素をひとつの作品の中に落とし込んだこの作品の製作者は、怖さというものについて、本当に熟知していたのではないかな、という気がします。

最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソー・ビギニング

【明かされる過去】

前回に続いて「テキサス・チェーンソー・ビギニング」を鑑賞したわけですが、時系列でいうと、こちらの方が過去に当たるんですね。それに少しびっくりしました。そして、彼らの原点を見たような気がします。

物語の序盤で、断片的にレザーフェイスについての過去が明かされています。出産直後に捨てられたことや、その後に障害が発見されたこと、そして「いい男ではなくてはも生肉所なら働ける」という励ましを受けたこと。

この「生肉所でなら」というある意味歪んだ価値観の植え付けが、レザーフェイスを殺人鬼に成長させた原因なのではないかという気がしました。「いい男でなくはなくても生肉所なら働ける」このひと言にはあらゆる偏見が満ちています。レザーフェイスが「いい男ではない」という価値観。「いい男」ではないと働き口がないという価値観。生肉所で働くことは、通常よりも劣っているという価値観・・・・・・などなど。

もっとも、現代の僕らの価値観に照らしたら偏見に見えるというだけであって、当時としては、これらは偏見ではなくてまっとうな分析だったのかもしれません。そのへんの詳しい事情については、よくわからない部分もあります。

ですが、レザーフェイスを含めた彼ら一家が、社会から孤立して暮らすことになったことに関しては、視聴者の同情を誘うことに繋がるのではないかと思います。

社会による救済というシステムからもはずれて、やむなく母親を殺してしまった介護殺人事件を僕は思い出してしまいました。ちなみに、その事件の被告は、裁判官から励ましの言葉をもらったものの、結局は自殺しています。

殺人は許されない行為かもしれませんが、殺人をせざるを得なくなった経緯を語ることで、その犯人も単なる悪人ではないことに気づいたりすることがあります。寂れた街を守るために、わざわざ社会から孤立した彼ら一家としては、もう殺人以外に生きる手段がなかったのかもしれません。孤立以外の道も、あるにはあったのだとは思いますが・・・・・・。

【伏線の数々】

伏線というのは、物語の序盤に仕掛けておいて、後半でそれが役に立つという形が多いですが、この作品ではそれが逆に使われていました。

つまり「テキサス・チェーンソー」における登場人物が、どうしてそういう行動をするのか、ですとか、どうしてそういうキャラなのか、というその理由が、この作品においては語られているわけです。「テキサス・チェーンソー」を見てから「ビギニング」を見ると、なるほど、それでこうなったのか、と繋がる部分がいくつもあります。

例えば保安官の正体。どういう経緯で偽物の保安官になったのか、ということが語られています。冒頭で本物の保安官を撃ち殺し、その制服を奪ってなりすましていたわけです。

そして、その保安官は前歯が欠けているわけすが、どうして欠けているのか、ということについても語られています。腕立て伏せをやらせた青年の恨みを買い、その復讐に遭って歯が折られたわけです。

それから、モンティ老人がどうして足をなくしたのか。これについても語られていました。保安官が、レザーフェイスに命令して斬り取らせたわけですが、こんなことまでする必要はない上に、するにしても、両足を斬る必要はなかったはずです。ですが保安官は両足を斬らせました。理由はバランスをとるため。いちばんクレイジーなキャラクターはこの保安官ではないかという気がします。

しかしモンティ老人の一件はともかく、保安官は誰よりもレザーフェイスに対して肯定感を持っていたのではないかという印象を受けました。

皮膚病で変形した顔を笑われ、からかわれていたレザーフェイスに、それでも働くことはできると可能性を示す場面や、レザーフェイスが人を殺したことについて、本物の保安官から「あんたがあの怪物をまともに育てていたら」と指摘されたことに対して「あいつは普通だ、みんな誤解しいるんだ」と言っている場面から、それが感じられます。

もしらしたら、社会からの孤立を選択したこの保安官が、レザーフェイスを自分の道具として使うために、そのような愛情をかけていたのかとも思いましたが、やや違うように思います。その理由はというと、本物の保安官に「あいつは普通だ」と反論しているからです。

どういうことかと言いますと、もし自分の道具として使うのが目的で愛情をかけているのだとすれば、レザーフェイス本人がいないところでまで、彼を庇う必要はないんです。上辺だけの愛情なら、そういうことになるはずです。

ところが、「あいつは普通だ」と説明している場面に、レザーフェイス自身はいませんでした。だから、ひょっとしたら本心からレザーフェイスのことを気にかけているのではないか、と思ったわけです。

もしくは、社会から孤立した自分自身と、見た目によって馬鹿にされてきたレザーフェイスの境遇を重ね合わせて、そういう弁護的なことを言ったのかという気もします。これらのことを考えると、殺人鬼側にも多少の同情を感じてしまうのですが、僕だけでしょうか。

【孤独の物語】

冒頭で、ふたりの子供がいることを打ち明けて、その名前を尋ねられる場面があります。その時に冗談で「ボニーとクライド」と答えるのですが、これの分かる方は、それは洒落にならないだろうと思ったのではないかと思います。

ボニーとクライドというのは、アメリカじゅうを走り回った、カップルの強盗犯で、その最期は、ふたりとも裁判にさえかけられず、警官隊の一斉射撃に晒されて死んでしまうという凄惨なものでした。このふたりは実在の人物で、ふたりの出会いから最期までを描いた作品が「俺たちに明日はない」という題で映画になっています。

彼らは、社会から爪弾きにされた存在で、社会への復讐と、社会を嘲笑するというような形で罪を重ねたように作品では扱われています。収入は強盗でのみしか得られず、定住する場所もなく、おまけに国家から睨まれている彼らは、まさに明日のない毎日を生きるわけですが、その姿はひたすらに孤独に見えます。

そしてこの映画も、登場人物はみんな孤独です。殺人鬼側は社会から孤立しているので孤独ですし、主人公たちも孤独です。主人公たちは、序盤では仲良く車に乗っていますが、誘拐されてからはそれぞれが分断され、孤独になります。知らない環境での孤独というのはとてつもない恐怖です。

すべての人間が孤独の中で戦っているということが、この「ボニーとクライド」という冗談から出た台詞へ、象徴的に込められているように感じました。そして、その孤独をさらに掻き立てているのが、おそらくは〝音〟なのではないかと、そんな気がします。

最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソー・ビギニング

【音しか聞こえない】

分断された主人公たちが、拘束されている場面がたくさん出てきます。その中で、仲間の姿は見えないけれども声だけが聞こえるという場面が見られます。これは当事者としては相当な恐怖なんではないかという気がしてなりません。「目の前で人が切り刻まれているのを見る」のと「壁の向こうから叫び声とチェーンソーの音だけが聞こえる」のとでは違った恐怖を覚えると思います。

音だけというのは、実際に何が起きているかわからないので、実際以上のことを自分で想像してしまいます。そして自分で想像したことや確信したことほど、人は信じやすい傾向があります。

そういう意味でいうと、仲間が何やらひどい目にあっていることが音からのみ分かっているのに、それを助けに行けないどころか逃げることも出来ない、という状況は相当に恐ろしいものでしょう。

【希望の直前の絶望】

ラストもまた、視聴者の嫌悪感を誘うものがあります。この場合の「嫌悪感」というのは、もちろん褒め言葉です。

最後、ひとり残された女性が車で脱出に成功し、前方に本物の保安官がいるのを見つけ、ようやく生きることへの希望を見出した直後に、いつの間にか後部座席に乗り込んでいたレザーフェイスに胸を貫かれて死んでしまう場面。もう絶望しか感じません。

これが屋敷の中でのことだったら、やっぱりこういう運命になるのかと諦めもつくのかもしれないですが(視聴者はかなり感覚が麻痺している)、希望の直前に殺されてしまうというところに、この構成を考えた人のサディスティックな素質を感じます。

【さらなる絶望】

この作品の前に「テキサス・チェーンソー」を見た人は、この後に、また別の若者たちが殺されるんだよなあ、と思うかもしれません。おそらく〝後に〟「ビギニング」を見た人にとっては、さらなる絶望を感じることでしょう。しかも、かなりリアルに。

そして「テキサス・チェーンソー」の終わり方も、ちょっと曖昧なものでした。映像で残されたレザーフェイスがちらっと写っている映像が映されているだけですので・・・・・・。この先、さらに何かが起きることも想像できます。

この最強に怖い映画 洋画 テキサス・チェーンソーシリーズには、まったく希望というものが見られません。被害者はほとんど死んでしまうし、殺人鬼側も、人を殺すことでさらに孤立を深めるからです。しかも、その孤立の中にあるのは、不衛生な建物と、平均年齢の高い人物だけです。

それが、この二作品の味なのではないかと、僕は思います。絶望が絶望を呼ぶループ。それを予想させる結末。下手に救いのある要素を入れるよりも、百%どっぷりと絶望に浸される感覚は、見たあと、かなり長く尾を引くことになるのではないでしょうか。

怖い場面、痛い描写が頭から離れない、なんて気分の悪い映画だ! もしそんなふうに思ったのだとしたら、その感想はこの映画に対する究極の褒め言葉になることでしょう。

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大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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