スプラッター映画 ハイテンションでハイテンション!

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ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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スプラッター映画 ハイテンションでハイテンション!

【悪魔の証明】

「納得のいく説明をしてください」テレビ中継を見ていて、よくそんな言葉を聞いた覚えがあります。どの番組で、誰が言ったのかという具体的なことはここでは書きませんが、覚えのある方も多いのではないでしょうか。ところで、そもそも「納得のいく説明」ってどんなものでしょうか。

僕の感じたに過ぎないことですが、「たとえ事実とは違っても、こっちの納得のいく答えを出せ」というような意味に聞こえてなりませんでした。納得できれば事実でなくてもいいというのは、それこそ納得できません。それでは冤罪がまかり通ってしまいます。

「悪いことをして〝いない〟」ということはどうやっても証明できないわけですから・・・・・・。「悪魔の証明」を公の場で求めるのは悪質だし、「悪魔の証明」を知っている人から見れば、言いがかりをつけている側が「頭の悪い奴」という印象を抱いてしまいます。これは普段から思っていたことではなくて、ある映画を知ってから思ったことです。

【フレンチ・スプラッター】

フランス産の映画で「ハイテンション」というタイトルのものがあります。ジャンルとしてはスプラッター映画です。内容を軽く説明すると、こんな感じになります。

主人公は、マリーとアレックス。2人とも女性で、仲の良い友人同士です。冒頭で、マリーが陰鬱な様子で登場します。そして「録音を始めて」という言葉から物語は始まります。

ある日、マリーはアレックスと共に、ドライブをしています。目的地はアレックスの実家。ちなみにマリーは同性愛者で、カミングアウトはしていないものの、アレックスに対して恋愛感情を持っています。やがてアレックスの家に到着し、マリーは歓迎されます。

しかし、その暖かい雰囲気も長くは続きませんでした。見知らぬ男が突然侵入してきて、アレックスの家族を殺してしまうのです。マリーは身を隠すことで難を逃れましたが、家族はほとんどやられてしまいます。

男がいなくなってから、マリーが様子を見に出てくると、アレックスの母が、まだ息があることを発見します。母は、マリーを見つめながら「なぜ、なぜ」と繰り返し、ついに息絶えてしまいます。アレックスの家族は殺されたものの、アレックス本人だけは殺されずに済みました。

とはいえ、アレックスは鎖で拘束された上に、トラックの荷台へ積まれてしまいます。男は、そのままアレックスを連れ去ろうとします。この時点で、男としてはアレックスだけを連れ去るつもりでした。

しかし実際には、アレックスを助けようとしたマリーも荷台には乗っていました。マリーは武器として包丁を持ち、アレックスを助けようとしたのです。途中、ガソリンスタンドに寄り、給油を始めました。

マリーはそれをチャンスと見て、持ってきた包丁をアレックスに渡すと、自分だけ荷台から降りて、近くの雑貨屋へ助けを求めに行きます。しかしうまく助けが呼べません。その内に、アレックスを載せたトラックは発車してしまいます。

マリーは、見失ってはいけないと思い、雑貨屋の車を奪って追跡を開始します。やがてマリーは殺人鬼と対決してこれを倒し、ようやく最愛のアレックスを助けることができます。しかしアレックスは、マリーに包丁を向け、「近寄らないで」と言います。

その頃、マリーが車を奪った雑貨屋には、警察が来ていました。店主が死んでいます。警察が防犯カメラを確認すると、マリーが店主を殺している様子が映っていました。

実は、「マリーが男からアレックスを助け出そうとした」という展開は、実はマリーの頭の中だけで起きていた物語で、実際は「マリー自身が犯人だった」という結末です。視聴者としては、そこで冒頭の「録音を始めて」に帰るわけです。

スプラッター映画 ハイテンションでハイテンション!

【禁断の結末】

「不思議の国のアリス」という物語があります。また、落語では「鼠穴」という題のものがあります。この2つに共通しているのは、結末が、「実はすべて夢の中の出来事でした」というものだということです。このような結末は、「夢オチ」などと呼ばれています。

しかし「夢オチ」は基本的に禁じ手とされています。なぜなら、読者や視聴者を裏切ることになるからです。その物語をずっと読んできた、あるいは観てきた読者や視聴者は、そこまでに出てきた謎や問題がどうやって解決するのだろうという期待を持っているわけです。

そしておそらく多くの人が、あの問題はこうやったら解決するだろう、とか、あの謎の答えはこうに違いないとか想像や推理を目いっぱい膨らませているわけです。だから、言ってみれば、結末には「答え合わせ」のような要素も含んでいることになります。

しかし、それが「夢の中の出来事」だとしたら、そこまで考えてきたことがみんな無駄になってしまいます。夢の中なら、どんなことでも起き得るわけですから、たとえば敵に囲まれるような大ピンチも、あるいは難解至極な密室トリックも、「超能力(など)」を出せば片付いてしまいます。しかも、その超能力を出すのに、伏線などを張る必要もありません。夢の中だからです。

謎や問題について、登場人物と一緒になって考え、あるいは想像上で立ち向かい、胸を高鳴らせてきた結果、努力だとか知恵などではなくて、いきなり出てきた超能力で解決してしまったら、興ざめというものです。だから、夢オチは禁じ手とされています。(とはいえ、これは僕の解釈であって、これが絶対に正しい理由だということはありません)

だから、もし夢オチなんかで物語が終わってしまうと、「納得できない」などといった批判が出ます。この記事で紹介した「ハイテンション」という映画も同じです。

夢ではないものの、すべてはマリーの「頭の中でのみ起きていたもの」という結末です。この映画には少なからず不満を持つ人がありますが、その不満の標的は、まさしく「夢オチ」に近いその終わり方に向いているようです。つまり興ざめさせられたことへの不満です。

ここでの「不満」は、別な言い方をするなら、「納得できない」ということにもなるでしょう。しかし、どうでしょう。僕は案外、この結末でもいいんじゃないかな、という気がします。満足とまでは行かないまでも、なるほどあの台詞はこの結末の伏線だったのか、などと思える部分がいくつかあるからです。

どの部分がそうかと言うと、まず冒頭の場面です。マリーが登場して「録音を始めて」という声が入ります。それから物語が始まるわけですが、この繋がりを見れば、マリーの語りを映像化しているのだな、と察することができます。初めて見る場合は察することができないかもしれないですが、結末を見てから冒頭を思い出せば、無理ではないと思います。

それから、アレックスの母の台詞もそうです。瀕死状態の母は、マリーを見て、「なぜ」と問いかけます。「助けて」などの言葉なら頷けますが、「なぜ」というのはよく分かりません。

どうして「なぜ」なのか、また、何について問いかけているのか、いまいちよく分かりません。しかし「マリーが犯人だった」という結末を見たら、「なぜ」という言葉もわかります。「なぜ殺したの」と言いたかったのではないかと思われます。

さらに、アレックスの行動にも不自然なものがありました。犯人の〝男〟をアリーが倒した後、アレックスは、アリーに感謝するどころか、包丁を向けて「近づかないで」などと言っています。これも「アリーが犯人」とするならば、わからないどころか当然と言える行動です。

結末を見たら頷ける部分は、よく見れば他にもあるかもしれません。つまり、この映画は単なる夢オチなのではなくて、ストーリーの途中で、結末は夢オチですよ、というヒントが散りばめられているわけです。

それが、夢オチが許されるんじゃないかなと僕が思う理由です。もっとも、正確に言うなら「夢」ではなく「妄想」なのですが・・・・・・。ここまでは、マリーが犯人だったら夢オチでも納得できるのではないか、ということについて話してきました。しかし、納得できない部分もあります。

【夢うつつ】

はじめにも話したように、この映画はスプラッター映画です。残忍に人体が破壊される様子が描かれています。夢オチの物語は、「すべてが」夢の中の出来事という場合が多いです。しかし、この映画は違います。

スプラッター映画としての残虐な人体破壊は現実に起きていることなわけです。現実で起きていることであり、なおかつ、それはアリー本人がやっていることなわけです。では何が妄想の中のことなのかといえば、現実に起きていること、自分がやっていることに対する「アリーの解釈」が妄想なわけです。

つまり、アレックスの家族を殺し、またアレックス本人を連れ去った〝男〟は実在していないということです。アリーは自分がやっていることを、それは自分がやっているのではなく「見知らぬ男」がやっていることだとアリーは解釈(もしくは辻褄合わせ)しているわけです。

だとすると、おかしな場面があります。例えば、男が運転する車をアリーが別の車で追跡する場面です。この場面は、〝他者〟がいないと実現しません。

そのように、「夢オチ」だとすると説明のつかない部分がいくつもあります。そしてこれらの矛盾については、ついに最後まで説明されることがありません。視聴者は、謎を謎のまま放り出されてしまうわけです。もちろん、それは製作者側の未熟ゆえなのだとは思いますが、もしかしたら、なんらかの意図があるのかもしれません。その辺は分からないところです。

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【情状酌量の余地】

少し映画の話からは離れますが、裁判において「情状酌量の余地」という言葉を聞くことがあります。犯罪に至った経緯や背景などを考えて、減刑するというような意味です。その酌量する内容に、「反省している様子が見られる」というものがあります。必ずあるわけではないですが、ある場合があります。

しかし、どうやって反省しているかどうかが分かるのでしょうか。涙を流しながら謝罪の言葉を述べて頭を下げれば反省しているのでしょうか。でも、それなら演技でも可能です。心の中でせせら笑いながらそのような演技をすることも可能です。反対に、ものすごく反省しているのに、無表情でいることも可能です。だから反省しているかどうかではなく、その言葉どおり「反省している様子が〝見られる〟」という部分だけが重要なのでしょう。

ただ、そうだとすると、本気で感情表現が苦手で反省の色を出すことが苦手な人の場合は、反省しているのに「反省していない」と判断されてしまいます。もしそうなったとしたら、「反省しているのにどうして酌量してくれないんだ」と言いたくもなるでしょう。

実際にそんな文句を言う機会はたぶんないと思いますが、もし言ったとしたら、判決を言い渡す側としては「(反省していると言われても)納得できない」と返すのではないでしょうか。

そして被告は、不利な判決を受けることになってしまいます。たとえ事実だったとしても、納得出来なければ「事実ではない」と認定されてしまうわけです。どうしてこんな埒もない話をしたのかというと、まさしくこの映画が納得できるか、できないかが焦点となってくるからです。

【みんな納得できない】

男〟が存在しなければ成立しない展開には、どんな意味があるのでしょうか。そもそも意味があるのでしょうか。すでに話したように、展開に無理があるのは、製作者の未熟が原因になっているのかもしれませんし、なんらかの意図があるのかもしれません。

そして、もし意図があったとして、その意図が「空が青くて、その美しさを伝えたかった」のような、てんで意味の分からないものだったとしたら、人によっては激怒するかもしれません。

でも、その意図がもし本当だとしたら、こちらとしてはもうそれを受け入れざるをえません。「そんな意図は嘘だ」とでも言おうものなら、「嘘だという証拠を見せてみろ」と返されてしまいます。嘘だと言うからにはそれを証明する何かを示さなくては、はじめに話した「悪魔の証明」を要求することになってしまいます。

だから出来ることはといえば、嘘だと主張するのではなく、「どういうこと?­」と問うくらいのことです。本人が事実を言っているのだとすれば、納得するかしないかは、こちら側の問題です。また、その納得できるかできないかという問題についていうと、製作者と視聴者という関係だけのものではありません。

物語の中の、アリーと、その他の人物との関係もそうです。もちろん警察などでは、成立しない事実をどう扱うのかという問題は放ってはおけないでしょうが、そうでない人間からすれば矛盾については関係のないことです。

たとえ矛盾していたとしても、また常識ではないものだとしても、本人がどういう形で納得しているのか、ということには介入のしようがありません。たとえこっちが納得できない内容だったとしても、です。

また裁判の話になってしまいますが、判決を下す時に「残虐極まりなく、とても許せるものではない」のようなことが言われることがあります。「残虐」「許せない」というのは、おそらく常識などを基準にしているのでしょう。

でも、たとえ「残虐」だったとしても、また、もし被告本人もそれを「残虐」だと認めていたとしても、残虐に殺したからには残虐に殺したなりの理由があると考えることもできるはずです。たとえば、ものすごい恨みを抱いていたら、ことさら残虐な殺し方をしたいと思うことでしょう。

そこまで考えるなら、残虐な殺し方をした殺人犯ほど、減刑の対象になるのではないかとさえ思えます。「納得」という個人的な感覚が、人の有利不利を決めることになっているのだとすれば、嫌だなと僕はいつも思います。<そんな目で見ると、アリーはきっとかわいそうな存在です。判断基準の相違が、人と分かち合えない原因になってしまっているからです。

スプラッター映画 ハイテンションでハイテンション!

【スプラッター映画として】

以上、「納得」をキーワードに、この作品について語ってきたわけですが、これがスプラッター映画だということを忘れてはいけません。スプラッター映画としてこの映画を見るとどうでしょうか。まず残虐描写についてなんですが、結構〝来る〟ものがあります。

凶器としては、カミソリ、ショットガン、斧、チェーンソーなどなど、さまざまなものが使われています。そして、血が飛び散るシーンもたくさんあります。それでありながら、「作り物っぽい」ような感じはありません。結構リアルです。それでも、スプラッター映画を見慣れた人にしてみれば、これらの要素は、あって当然のものなのでしょうか。

描写はもちろんですが、タイトルにも注目すべきものがあります。「ハイテンション」――それがこの作品のタイトルです。スプラッター映画は、その残虐な描写ゆえにハイテンションになります。それは見ている側も、作中の人物もそうだと思います。

しかしこの映画は、スプラッター映画として必須の残虐な描写に加えて、もうひとつハイテンションになる部分があります。それは、〝矛盾〟です。

この映画を知っている人と、辻褄が合わない部分について話せば、きっと話は尽きないことでしょう。それはこう説明できる、いやいやそれは違う、こうに相違ない、などと話していれば、時に興奮してきてまさしくハイテンションとなることでしょう。

その言い合いの中にも、もしかしたら無理や矛盾が発生してしまうことがあるかもしれません。でも、そんなことは〝どうでもいい〟ことです。会議なんかではないので、矛盾があろうが非常識だろうが、話していて楽しければそれに越したことはありません。

スプラッター映画に限らず、物語を扱う作品はよく評価をされますが、正直、楽しければ良いんじゃないかな、と僕は思います。テンションという言葉は、日本語で言えば緊張や不安ということになるのですが、日常会話でハイテンションという言葉を使う場合は、必ずしも緊張や不安などだけではありません。楽しすぎて高揚している様子も指すのではないでしょうか。

スプラッター映画としてハイテンションになり、さらに内容について話すことによってハイテンションになれる――それが、この「ハイテンション」というスプラッター映画の魅力のひとつなのではないか、と僕は思います。

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大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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