デジタルでバイトを乗り超える!スラッシャー映画とは?意味と歴史

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ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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デジタルでバイトを乗り超える!スラッシャー映画とは?意味と歴史

【デジタルデバイト】

学校の学習にコンピュータやインターネットを使う率は、イギリスでは9割を超えているそうです。それに比べて日本は4割以下。このことから、デジタルデバイトという問題がこれから起きてくるかもしれません。いや、すでに起きているかもしれません。

ところで、デジタルデバイトとはなんでしょう。デジタルデバイトは、日本語でいうと「情報格差」となります。情報を得る方法はいくつもありますが、最も有力なものはネットでしょう。

もっとも、ネットで得ることができる情報は玉石混交で、どの情報がどれくらい信じられるか、という信憑性の問題もありますが、複数の情報源を探れば、ある程度信じられるものとなるでしょう。

また、ネットが使えるか否かは、情報を得るだけではなくて、情報の発信力にも影響します。ビラを撒くよりもネットで拡散した方がより広い範囲へ情報を飛ばすことができます。そして発信した情報が絡み合い、さらに新しい情報や価値、システムなんかが作り出されます。

過去の歴史を振り返ると、手紙が書かれるようになったのも革新的だったと言います。それまでは「竹簡」などが使われていましたが、それらに比べると手紙は素材が紙であるため、軽いし折りたためます。大幅な軽量化が成功した手紙は、重宝されるようになりました。

今はネットです。デジタルデバイスは、貧富の差を産む問題として捉えられている一面があります。当然ですけど、情報の収集とか発信、またはコミュニケーションなどがネットを通してできるかどうかは、どれだけ迅速に現状に対応できるかどうかに関わります。

災害が起きた時も、手許に端末があれば、自分の居場所を知らせて助けを呼ぶことができるかもしれません。災害前なら、今どこそこで何が起きていると知れれば、危険を回避することができます。

そういう意味でいうと、デジタルデバイトという問題は、貧富だけではなく、時として生死の境をも分ける重要な一線となり得る可能性があります。今回は、そんな視点からスラッシャー映画について書いてみたいと思います。

【そもそもの話】

スラッシャー映画について書いてみる、と先ほど書いたのですが、そもそもスラッシャー映画とはどんな映画のことを言うのでしょう。まずは、スラッシャー映画とは、という定義から話してみたいと思います。スラッシャー映画とは、言ってみれば(人が)切り刻まれる映画のことを指します。

似たもので、スプラッター映画と呼ばれるジャンルがあります。スプラッターは、「液体が飛び散る様子」を指します。液体といってもさまざまなものがありますが、映画のジャンルでいうところの「スプラッタ」は、多くの場合血液を指します。

なので、死者が出なくても人が切り刻まれる場面がたくさん描かれていれば、それは「スラッシャー映画」です。急所を外して何回も切りつければ、これが可能です。反対に、大量殺人が起きても、血の飛び散る様子が描かれていなければ「スプラッター映画」とはいえません。

それでも、殺人が起きる場面を描くなら、自然と流血する様子も描かなくてはならないのではないか、と思うかもしませんが、そうとも言いきれません。ではどうやって、流血を描かずに人間が切り刻まれる様子を描くのかというと、例えばこんな感じです。

1・被害者に向かって、殺人鬼が刃物を振り上げて、振り下ろす。

2・殺人鬼が、何度も何度も刃物を振り上げては刺し、刺しては振り上げる様子を、壁に写った影のみを映して表現する。そこに被害者の悲鳴が重なる。

こうすれば、血を描かずに人の切り刻まれる場面を創ることが可能です。おそらくですけど、こういう間接的な描写の方が、もろに見るよりも想像力を掻き立てられる分、怖さは増すのではないかと思います。

・・・・・・と、スラッシャー映画とは何か、ということについて語ってみたのですが、これは僕の解釈であって、絶対に正しいと言える内容ではありません。スプラッターとスラッシャーの違いは何か、という議論には決着がついていないのだそうです。

でもとりあえず僕はここに書いたように解釈しました。さて――。ここまでは、スラッシャー映画とはどういう意味なのかを語ってきましたが、はじめにも話した通り、現在の日本は、もしかしたらデジタルデバイトと呼ばれる問題に直面することになる可能性があります。

国家レベルのことは個人ではどうすることもできませんが、もしデジタルデバイトのデメリットを被りそうになったらどうすれば良いのか、それをスラッシャー映画の歴史から探ってみたいと思います。

【スラッシャー映画ができるまで】

そもそもの始まりはグランギニョール劇場でした。グランギニョールとは、「血なまぐさい」「荒唐無稽」などといった意味です。荒唐無稽で血なまぐさい内容の見世物専門の劇場――それがグランギニョール劇場でした。この劇場で扱われたものが、ECコミックというアメリカのコミック誌に影響を与えました。これが1960年代のことです。

それと時を同じくして、映画の中には「ショッカー」「ショック映画」などと呼ばれるジャンルがありました。これは、いわゆる〝怖い〟映画なのですが、この時点では、まだ「スプラッター」「スラッシャー」などの言葉は使われておりませんでした。

内容も、過激ではあるけれでも、表現が間接的であったり、怖いけれども必ずしもグロテスクではなかったりといったものだったようです。

ECコミック、そしてショッカー(ショック映画)――このふたつの流れが、スラッシャー映画やスプラッター映画といったジャンルを産む歴史の源流だったという考えが強いようです。では、世界初のスラッシャー映画とは、どんな作品だったのでしょうか。

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【映画ではない映画】

それは決して評価の高い映画ではありませんでした。残虐な描写を描いているばかりで脚本が滅茶苦茶だとか、大根役者ばかりだ、などなど、レビューを見れば低い評価が非常に目立ちます。

この時代でも、例えば民俗学における民話の歴史などから、ストーリーの構築については色々研究されています。だから脚本もそれに倣えばそんなに酷いものにはならなかったはずです。なのに、どうして、この映画はこんなにもストーリーがお粗末なのでしょう。また、それなのにも関わらず、なぜ有名になったのでしょう。

映画を作品として見ると、単なる映像ではなく、演技にもストーリーにも音にも期待します。しかし、映像以外はほとんど評価されていません。なのに、この映画は多くの人に知られ、監督には称賛の声も上がっています。

この矛盾は何でしょう。理由のひとつとして、この映画は「作品」ではなかったからなのではないか、と考えることができそうです。

その映画のタイトルは「血の祝祭日」です。監督は、ハーシェル・ゴードン・ルイス。内容は、1文で説明できるほど単純です。犯人の男が、「いっぷう変わった料理」を作るために、何人もの女性を殺害する――というもの。〝それだけ〟です。

たったそれだけの内容なのに、どうしてこの映画は有名なのでしょう。それは先ほども書いた通り、この映画は「作品」ではなかったからなのではないか、というのが僕の考えです。「血の祝祭日」は映画の歴史において初めて、人間の内臓をはっきりと映像に収めた作品だったそうです。

これは、それまでにはなかったことでした。なので、それ(内臓を映すこと)さえ撮って発表すれば「こういう表現を考えてみたんだけど、どう?­」と問いかけることができます。

つまり、「血の祝祭日」は「作品」ではなく、「提案」だったのではないか、と、そんな気がします。・・・・・・といえば、なんとなく尤もらしい感じがしますが、現実には悲しい出来事があったそうです。

【始まりはコメディ】

ハーシェル・ゴードン・ルイス監督は、当時、血みどろの映画ではなく、ちょっとしたポルノ映画を作ろうとしていました。それには少量の血糊が必要でした。なので血糊を発注したのですが――。その時に悲劇は起こりました。なんと、発注ミスをしてしまったのです。

ほんの少しだけあれば良いはずの血糊が、親の仇のように大量に届いてしまったのです。返品もできず、保管しようにも大量すぎて手に負えず、かと言って捨ててしまうのはもったいないです。

そこで監督は、その血糊を消費するために、あんなにも不必要に残虐で血のいっぱい出る映画を作ることにしたのだそうです。そうしたら大当たり。怪我の功名とはこのことです。

脚本が雑だったりと欠点が多くあるのは、なかばヤケクソみたいな心境だったからではないかと思います。奇しくも、スラッシャー映画、そしてスプラッター映画と呼ばれるジャンルの先駆けとなる作品が出来たきっかけは、まるでコメディのようなものだったのだそうです。ひとつの歴史の始まりとして、なんだか皮肉な感じもします。

【進化】

きっかけはともかく、スラッシャー映画というジャンルは「血の祝祭日」によって切り開かれました。1970年代に入ると、単なる血みどろの映画ではなく、今度はストーリーが重視されるようになりました。

殺人による残虐な描写を描きつつも、誰が犯人で、どうして、どのように殺していったのかを推理する、いわゆるミステリのような要素を取り入れ始めたのです。「血みどろの入江」(マリオ・ヴァーバ監督)という映画がその始まりです。

映像だけで、ただ残虐なだけ、意味がわからない、としてあまり評価されなかったスラッシャー映画も、その動機をきちんと作ることによって、犯人にリアリティを持たせたわけです。リアリティを持つ、ということは、それだけ犯人が身近になる、ということです。

観客にとっては、銀幕の中だけだったはずの出来事が、身近なものに感じられたのではないでしょうか。残虐な描写に加えて犯人像にリアリティを持たせ、さらに推理などのストーリーを持たせた映画は「ジャッロ」と呼ばれ、このジャンルが人気を博していきます。

その延長線上にあるのが、あの「悪魔のいけにえ」であり、また「鮮血の美学」などです。「悪魔のいけにえ」は推理要素は少ないものの、残虐ながらも、残虐にならざるを得なかったレザーフェイスの心境が描かれています。それは、観客からの理解を多少は引き出せたのではないでしょうか。

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【ふたつの流れ】

そのように発展してきたこのジャンルですが、1970年代後半から80年代に渡って、ふたつの流れに分かれていきます。そのふたつとは、・1人による大量殺戮・周囲の人間が正気を喪うというものです。

「1人による大量殺戮」とは、「13日の金曜日」のように、正気の人間の中に狂気を持った人間がいて、それが脅威になる、という内容のものです。

そして「周囲の人間が正気を喪う」とは、ゾンビのように、正気の人間が1人、もしくは少数で、怪物がたくさんいる(もしくは増殖していく)というような内容のものです。個人の好みにもよりますが、どちらも恐怖をそそります。

【閑話休題】

さて、ここまでスラッシャー映画とはどんな歴史をたどってきたものかというのをざっくりと振り返ってみたわけですが、この歴史が、「デジタルデバイト」問題にどう役に立つでしょうか。そもそも、スラッシャー映画とは、何だったのでしょうか。

きっかけは、ミスによる血糊の大量発注といういかにもコメディのようなものでした。ですが、それをきっかけにして、似たような映画が大量に創られ、たくさんの人を魅了しました。人が残虐に殺される様子を、なぜ見たがるのでしょうか。

見たくないものから目をそらす表現に「顔を覆う」というものがありますが、中には顔を覆った手の指の間から僅かに目を覗かせている場合もあります。それに「怖いもの見たさ」などという言葉もあります。時にB級と蔑まされ、また三流と貶められ、それでもコアなファンを持つスラッシャー映画とは、いったい何なのでしょうか。

その魅力については次回に譲るとしまして、そこに何が見られるのかに注目していたいと思います。

【おおまかに振り返ってみる】

はじめはグランギニョール劇場の「血なまぐさい」そして「荒唐無稽」なものでした。同時に、残虐さを含まないショッカー(ショック映画)が多く作られていました。その次には、描写だけではなく、ストーリーを作りこんだものが作られるようになりました。そして「ゾンビ型」と「殺人鬼型」の2つの流れができました。

ここまでの流れをもっとおおまかに言うと、「見た目だけ」から「ストーリーや心理(など)」も含む作品が作られるようになったわけです。それによって、B級と呼ばれたものの中から名作と評価されるものが誕生するようになりました。

つまり、人間の内面には〝恐ろしいものがある〟ということなのでしょうか。スラッシャー映画とは、人間の内側に眠る〝恐ろしいもの〟を描き出しているのでしょうか。

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【たぶん人間は怖い】

スラッシャー映画とは、ある意味で人間のありのままの姿を描いているのかもしれません。ありのままの姿とは、自分以外の誰かが殺されることを喜ぶ性質のことです。

もちろんそれが全てではないですが、そのような側面があるのは事実ではないでしょうか。この分野の映画が人気を集めていることから、そう解釈することもできそうな気がします。嫌かもしれないですが、まずはそれを〝事実〟として受け入れることが「第1歩」ではないでしょうか

【デジタルデバイトを乗り切る】

スラッシャー映画とは、「人を切り刻む映画」という意味です。これをただ残虐な映画として片付けることは簡単ですが、それでは意味がありません。もっとも、意味なんてなくてもいいんですが、それでも、どうせなら意味があった方が得な気がします。そこでデジタルデバイトです。

デジタルデバイトには様々な側面があるのですが、その中の情報の不足、ということについて絞って考えてみます。人間は〝醜い〟ものだ、または〝怖いもの〟だ、とします。だとすれば、それから目を逸らしてはいけません。

「人間は醜い」と言うと他人事のように思えてしまいますが、それは三段論法で考えると「自分は醜い」という結果になります。その「結果」は認めたくないものかもしれません。でも、そういうことになってしまいます。そして醜いのは自分だけではありません。

恋人も友人も上司も部下も親も子供も、人間に当てはまるものならばすべて「醜い、汚い」ということになります。そうすると、なんらかの方向性が見えてくるのではないでしょうか。ある事柄に対して、〝汚い自分〟ならどう対応するかと考えてみます。

人の不幸を笑い、他人を蹴落とし、劣る者を貶す――そんな感じです。そんな中で、〝善良な〟自分がもっとも嫌がるであろう選択肢はどれなのか――と考えてみます。そこで選んだ選択肢は、おそらくですが、他人もやります。そう考えるなら、相手の出方が予想できます。

最低限の情報は必要ですが、情報不足であっても、今手許にある情報から、可能な限り「自分より裕福な人間が」「もっとも汚い行動を取るとすれば」と考えれば、かなり困難ではありますが、予想を立てることができます。自分の中にある汚さや醜さを知れば知るほど、予想もしやすくなります。

目を背けたくなるような描写ばかりで、人によっては蔑まされることさえあるスラッシャー映画とは、もしかしたら、何よりも澄んだ、心の鏡であるのかもしれません。あまりにも澄んでいるために、見ている人間の心を――つまり醜さも汚さも映してしまうものなのではないか・・・・・・そんな気がしてなりません。

デジタルデバイトなどという大袈裟な言葉を出してしまいましたが、単なる予想だけでそんな大きな壁を乗り切ることはできないかもしれません。いや、できないでしょう。でも、もしネット環境に頼らずにデジタルデバイトという問題に臨むのなら、予想する以外に手はありません。

そして、そのためには多くの価値観を手に入れる必要があります。スラッシャー映画を大好きだと公言する人を、「異常」などの言葉で片付けることは簡単です。でも、そういった醜さを知ることで、予想がより的確なものになるのではないでしょうか。

映画は娯楽であり、中でも、残忍な内容のものは蔑みの対象にさえされる場合があります。でも、そういったところから人の心を見出すことができます。スラッシャー映画とは、多くの人が持つであろう〝醜さ〟〝汚さ〟をそのまま描いた、極めて純粋な映画である――と言えるかもしれません。そこから、現代を生きるためのヒントが得られるのではないでしょうか。

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大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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