カニバリズム事件で肉に魅了された日本人

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ナイトメア・シンジ

大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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カニバリズム事件で肉に魅了された日本人

【将来の夢】

今、ジョングリシャムという人が書いた本を読んでいます。子供向けの小説で、タイトルは「少年弁護士セオの事件簿」です。本作の主人公であるセオは、13歳の少年です。両親は共に弁護士。叔父は元・弁護士という筋金入りの法曹一家です。

そんな中で育ったおかげか、セオも、将来は法廷弁護士を目指しています。そんなセオに対して、元・弁護士の叔父がこんなことを言います。「弁護士になりたくてたまらないなんて子ども、おまえくらいしかみたことがないぞ」

叔父が言うには、子供というのは警察官や消防士やスポーツ選手や俳優になりたがるもの――なのだそうです。

将来の夢なんて人の勝手ですから、この叔父はいささか固定観念にとらわれているか、弁護士の仕事で失敗した過去があるので、弁護士という職業に対して、羨望や心残りのような気持ちが働いているのかもしれません。

でも、この小説の舞台は日本ではなくてアメリカですし、時代も、今よりはちょっとばかり前なので、そういう価値観が普通だったのかもしれません。今の日本だったら、将来は弁護士になりたいという子供がいてもおかしいことではないでしょう。

むしろ、その志しの高さを褒められるかもしれません。実際、ドラマでは「リーガルハイ」や「やけに弁の立つ弁護士が学校で吠える」などが人気を集めましたし、ゲームやアニメや舞台でも「逆転裁判」シリーズが人気で、確か6まで出ていると思います。

弁護士の他にも、今はサッカーが盛んで、サッカー選手になりたいという子もいるでしょうし、セオの叔父の言う通り、警察官や消防士やスポーツ選手に憧れる子もいると思います。将来にどんな職業に就きたいか、という夢はどんなものであっても、子供の意思ですから尊重するべきかもしれません。

でも、たとえば僧侶になりたい、と言った場合はどうでしょうか。実家が寺ならそう疑問には思わないかもしれませんが、そういう家の事情などない子供が僧侶になりたいと言ったら、ちょっと不思議に思うのではないでしょうか。

それを否定しないまでも、どうしてか、と理由を尋ねたくなるのではないかと思います。その答えとして、
「僧侶は勉強をするのが仕事だから」というものだったとしても、なんの勉強?­ などと、さらに突っ込んで訊きたくなるのではないかと思います。

それはなぜでしょうか。おそらくですが、僧侶という職業が「特殊」だからではないかと思います。そもそも僧侶を「職業」と呼べるかどうかという問題もありますが・・・・・・。

ともかく、僧侶に限らず、〝珍しい〟職業を目指すと言った場合、その子に対して疑問を持つことはあると思います。

でも、本人にとっては、なんらかの理由があるわけで、周囲の人が言うほど、本人は自分の考えを珍妙なものとは思っていないはずですし、それについて問い詰められるなんてのは大きなお世話なわけです。

ちなみに、作家の京極夏彦氏は、子供のころ僧侶に憧れていたそうです。本がたくさん読めそうだから――という理由で。でも僧侶は、意外に寺院経営など俗な部分での悩みが多いらしいと気づいてやめたそうです。

ここで言いたかったことは、少数派は珍しがられることが多いけれども、少数派には少数派なりの理由があるし、本人にとっては決して異常ではないということです。

【食人という禁忌】

禁忌――と書きましたが、それは「現代」の「日本を含むいくつかの国では」という条件付きでの話です。ネットで調べれば、長い歴史の中でどれくらいの食人――つまりカニバリズムが行われてきたのか、という情報が、厭というくらいに出てきます。

もちろん現代の日本において、好き勝手にカニバリズムをやるわけにはいきません。そういう嗜好や性癖みたいなものを秘めている人はいるかもしれませんが、考えるのは自由です。ただ、実行に移してしまうと大事件です。

その場合は、遺族の思いだとかいうのは度外視されて、その猟奇性が、取り上げられるのだろうなという気がします。それも、なかば面白半分に。そのくらいにカニバリズムは異常な行為として認識されています。

一方で、遭難などによる飢餓により、やむなく仲間を食べるという場合はあります。その場合は、顔を顰めながらも同情する人の方が多いものと思われます。逆に言えば、同情はするものの、顔を顰めるくらいの厭な感情は持つということです。

やむを得ない事情がある場合でさえ、禁忌とされる――それが、現代の日本におけるカニバリズムです。いや、現代の日本における、カニバリズムに対する〝多数派の認識〟です。

ところで、カニバリズムに対する認識を書いてきたわけですが、はっきり言って、あらためて書くまでもないことだったと思います。なぜなら、当たり前だからです。しかし、カニバリズムが禁忌とされているのはなぜか、というと、これはちょっと明確に説明することができません。

例えば、殺人を犯すことになるから、あるいは死体損壊に当たるから、など、いろいろと理由は考えられるのですが、それらは殺人や死体損壊が禁止(禁忌ではなく)されている理由です。カニバリズムを禁忌とする理由にはなっていません。

中には、「人間が人間を食べるなんて言語道断だ」という、まったく答えになっていない回答もある始末です。でも、この、回答になっていない答えを出した人が愚かだとは僕は思いません。なぜなら、理由というのは突き詰めると答えられないところに行き着いてしまうからです。

例えば、「なぜ人は食事をするのか」という問いは、突き詰めていくと、究極的には「生きるため」に行き着きます。そこでさらに「なぜ生きなくてはいけないのか」と問われると、偉大な哲学者みたいな人たちでさえ意見が割れる論争に突入することになります。

カニバリズムを禁忌とする理由も、きっと同じなのだと思います。死体損壊や殺人も理由のひとつですが、他にも同種同志で喰い合うと種が滅んでいしまうから、というのもありました。しかし、それらの理由がすでに、それ以上の答えを得られない究極の位置にあるのではないかと思います。逆も同じです。

カニバリズムを経験した人間に、どうしてカニバリズムをやったのかと聞けば、相手が好きだったから、のような理由を聞くことができると思います。具体的に、人を絞ってみます。

【パリ人肉事件】

この言葉を聞いて、知っている人なら、まずは佐川一政という名前が出てくるのではないでしょうか。いちおう少し説明しておきますと、佐川一政氏は、カニバリズムを実行した人で、作家やエッセイストとして活動していた人です。この記事を書いている現在、まだ存命されています。

パリ人肉事件というのは、佐川一政氏が起こした事件で、内容は事件名そのままです。パリにおいて、佐川一政氏が女性を殺害して、屍姦した後にその肉を喰ったという事件です。

通事の通訳ミスにより、心神喪失状態と診断され、パリにおいては罪に問われることはありませんでした。その後、佐川一政氏は日本へ帰国します。その時は、責任能力があったとして罪に問われそうになりますが、フランス側が事件の資料を提供してくれなかったので、結局罪を問うことはできませんでした。

その佐川一政氏ですが、なぜ女性を喰ったのでしょうか。本人の話によると、カニバリズムに対する欲求は、子供時代からあったのだそうです。理由は、わかりません。

パリの女性に関しては、「喰うために殺した」のだそうです。ですが、一方で、佐川一政氏本人はこうも言っています。「もう1回でも(殺した女性と)食事をともにしていたら、食べる対象にはなっていなかったかもしれない」

つまり、これは僕の解釈ですが、佐川一政氏にとっては、人間か人間ではないか、という基準は、あまり意味のないものなのではないかと思います。では何が基準になっているのかというと、おそらくですが、親しいか親しくないか、という違いなのだと思います。

美味しそうに見えても、親しい相手なら食べない、美味しそうに見えて、かつ親しくなければ食べる、といった具合だったのではと思います。これを異常だと思うでしょうか。次の見出しを読んでから判断してみていただきたいと思います。

カニバリズム事件で肉に魅了された日本人

【ブタがいた教室】

これは、ある小学校で実際に行われた授業です。担任の教師が豚を連れてきて、生徒たちに言います。「みんなで育てて、最後に食べよう」それから、みんなは豚に「Pちゃん」という名を付け、一生懸命に世話をします。

そして最後に、約束通り食べようという流れになるのですが、名前までつけて世話をしてきた豚を、いくら豚とはいえ、それを食べることに生徒たちは抵抗を覚えます。

命の大切さや、生き物を殺して食べるということの重大さを子供たちに考えさせる授業、つまり「食育」として実践された授業ですが、賛否はともかく、最後に注目してほしいと思います。

子供たちは、豚を食べることに抵抗を覚えています。もちろん、食べるという意見もあるのですが、食べたくないという意見もあります。生徒たちは食べるか食べないかで大論争を巻き起こします。でも、豚肉は食べますよね。普通なら。

豚カツにしても生姜焼きにしてもいけます。普通なら食べるはずの豚に対して、なぜ子供たちの中に「食べたくない」という意見が生まれたのでしょうか。

それは、おそらく、名前までつけて一生懸命に世話をして、〝親しみ〟を感じていたからではないでしょうか。いくら豚であろうと、親しみを感じていれば食べられない――キーワードは〝親しみ〟です。

佐川一政氏の話に戻ると、あくまで僕の推測ですが、人間か人間でないか、ではなく、親しいか親しくないか、それが食べるか食べないかの基準になっているのではと話しました。それと同じことが、この食育という授業を受けた生徒たちの気持ちの中にも起きたのではないでしょうか。

豚肉だから食べるのが当たり前、なのではなく、たとえ豚肉でも親しい豚の肉は食えない――そんな、普通とは違う基準が生成されたのだと思います。

佐川一政氏の場合は、人肉だから食べないのが当たり前、なのではなく、たとえ人肉でも、美味しそうで、親しくなければ食べる――です。「たとえ豚でも、親しければ食べられない」「たとえ人間でも、親しくなければ食べる」この2つには、そう違いはありません。

こう考えれば、佐川一政氏の基準も、そう狂ったものではないと思えてなりません。ちなみに、豚を使った授業は実際に行われたものですが、この授業のことは映画にもなっています。そのタイトルが「ブタがいた教室」です。

この映画の中で、生徒たちが論争を展開する場面があります。豚を食べるか食べないか、です。その場面の撮影にあたっては、生徒を演じる子役たちには台本が与えられなかったと言います。

子役たちは、子役としてではなく、ひとりの人間として真面目に自分の意見を言い合っていたのだそうです。つまり全部アドリブだったといいます。僕は映画を観たわけではないので分かりませんが、きっと白熱するものがあったのではと思います。

【血が怖い】

佐川一政氏は、パリの女性を殺害・屍姦した後、いよいよその肉を喰うわけですが、まずはじめに齧ったのは、臀部だと本人は言っています。臀部の、右側の膨らみを齧ったのだと。なぜ右なのかというと、左は心臓に近く、血が出てくるのではないかと思い、それを恐れたのだそうです。

人を喰おうとするのに血が怖い、ということに矛盾を感じるでしょうか。僕は感じません。また豚肉の話になりますが、豚肉でも、消費者側である僕らは、製品として綺麗になった肉しか見たことがありません。でも業者はそうではありません。

実際の現場がどんな様子なのかというのは詳しくは知りませんが、殺して切るわけですから、血は出ることと思います。屠殺というのでしょうか。その場面に居合わせたら、たとえ豚肉の好きな人でも平静のままではいられない人もいると思います。

僕自身も、嘔吐するまではいかないまでも、いい気持ちはしないと思います。つまり、血を怖がることと、豚肉好きは矛盾しないということです。

【世界平和】

昔、僕が中学生だった頃の話です。差別だったか事件だったか、はたまた戦争だったか、きっかけはよく覚えていませんが、ある日全校朝会が開かれて、校長先生がこんなことを話しました。

「国が違っても肌の色が違っても、同じ人間同士が争ったり差別したりしてはならない」まともな教えだと思います。でも、一方で、僕はまた別の教師がこんなことを言っていたのを覚えています。

「同じ人間は1人としていない」どっちだよ! と当時は思いましたが、これは矛盾しているようでいて、実は矛盾していないんです。

なぜかというと、これは「言葉の多義性」と言って詭弁に使われることもあるのですが、「人間」という言葉の意味するところが違っているからです。

「同じ人間同士」という場合の「人間」は、「人間」という動物としての種のことを指し、「同じ人間はいない」という場合は、人間が持つ「個性」 のことを指しているからです。この言葉の多義性が、食人を禁忌としている理由のひとつになっているような気もします。

佐川一政氏事件カニバリズム事件を起こしてから、そのことで日本には衝撃が走ったといいます。カニバリズムという異常な犯罪に加え、それが〝同じ日本人だったから〟です。

犯罪者と〝同じ〟となると、あまりいい気持ちはしないと思います。佐川一政氏について言うなら〝同じ日本人〟ということになるわけですが、これも〝日本人〟という括りで見た場合のみ同じというだけのことです。

氏は兵庫県生まれなので、兵庫県出身の人以外はみんな〝違う〟し、性別も、彼は男性ですから、女性はみんな〝違う〟人間です。そして〝同じ〟というなら男性という属性は、全世界の男性は彼と〝同じ〟ということになります。

人間には属性が数え切れないくらいにあります。その中の「国籍」だけを取って〝同じ〟と思うのは見方がやや狭すぎます。よくネットで、殺人犯が受ける性格診断みたいなものがありますが、あれと同じ回答をしたからといって、犯罪者になるわけではありません。

だから、〝同じ〟か〝違う〟かで嫌な気持ちになったり安心したりするのはお門違いです。犯罪者と同じだから罪を犯すだろうという危機感も、反対に、犯罪者と違うから罪を犯さないだろうという安心も、どちらもまるで論理的な判断とはいえません。

ひとつの指針になる場合はありますが、せいぜい推測の域です。そういう〝同じ〟とか〝違う〟というところに危機感や安心感が見出される場合が、実際にどのくらいあるのかは、調べてみないとわかりません。

だから推測ではありますが、もしそういう傾向があるとするならば、犯罪者に対して〝異常〟というレッテルを貼りたくなる気持ちは、なんとなく理解できるようにも思えます。異常であればあるほど、その人間は自分とは〝違う〟ということができるからです。

カニバリズム事件で肉に魅了された日本人

【日本における食人】

はじめにも書いたように、世界においても日本においても、カニバリズムの歴史は多く見られます。外国の例ですと、奴隷と同じように、食べるために人間を飼育していた記録もあるくらいです。

中国においては、大切な人をもてなすために、自分の娘を殺して料理して献上するのが最上のもてなしとされていたそうです。孔子も、好きな食べ物は人肉だったという説さえあるほどです。日本においてはどうでしょうか。

世界もそうですが、日本においても数々の英雄が伝わっています。架空の人物から実在の人物まで、その数は知れません。その中に、カニバリズムを見ることができます。

源頼光や安達原の鬼婆、増上寺の僧侶、綏靖天皇という天皇にまで、カニバリズムをやったという記録が残っています。これらと同じことを今の日本でやったら間違いなく大事件です。当時も大事件だったとはおもいますが・・・・・・。

一方、山田浅右衛門という人は、事件性のないカニバリズムを行っていたといいます。山田浅右衛門は江戸時代の人で、人間の内蔵を使った薬を作っては売っていたそうです。人丹丸、浅山丸などという名前でどんどんと売れ、その財力は凄まじいものだったと言います。

【異常なこと】

今回は、佐川一政という人物を通して、カニバリズムについて書いてきました。現代の日本でこそ、カニバリズムは異常な行為とされていますが、異常という明確な根拠はありません。

むしろ、将来の夢の話や食育の部分では、佐川一政氏と似たような価値観が、少なからず誰にでもあるということがちょっとは主張できたのではないかと思います。異常と呼ばれるものは、本当に異常なんでしょうか?­ 「異常性」がまったくないと言える人は、いるのでしょうか?­

そもそも、異常と正常の違いとは、なんでしょうか?­もし、その違いが説明できないとしたら、佐川一政氏を異常と言えるのはなぜでしょうか?­

そして――。自分が「正常」であると思える理由はなんでしょうか?­そんな問いを最後に、この記事を締めたいと思います。

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大学時代に現劇団の前身「スパースターノイローゼ」旗揚げ。 1989年劇団「営業二課」設立。 1997年松竹シナリオスクール卒業。 フェニックス掌編文学賞入賞。 2009年8月から2017年2月まで中央林間カルチャースタジオ演技講師に就任。 現在は映画脚本、舞台演出、脚本、ラジオドラマ制作、リーディング講師など精力的に活動中。 演技指導はマンツーマンを基本に行っている。 日本劇作家協会会員。 劇団営業二課主宰。 横須賀まなび館演技講師。

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